国分町概要
国分町は広瀬通南側の1丁目、定禅寺通と広瀬通の間の2丁目、定禅寺通北側の3丁目からなる東北地方随一の歓楽街。「すすきの・中洲と並んで、日本の三大地方歓楽街」のひとつである。店舗数は国分町2丁目と稲荷小路・虎屋横丁で約2,350店。飲食街・歓楽街としての国分町全体で約2,700店。バブル景気時よりは集客が落ち込んでいると言われるものの、現在でも週末(金・土曜日)には国分町通と稲荷小路の通行量合計は一晩で6~7万人を数える。
ほとんどの飲食店は、東端が東一番丁通、南端が広瀬通、西端が晩翠通、北端が定禅寺通に囲まれたブロック内に集中している。国分町発祥のものとして、仙台牛タン、炉端焼き、レゲエパンチなどがある。昼間は連日一番町の買い物客に駐車場を提供し、夜間は繁華街の顔として、さまざまな役割を与えられている。現在国分町は、かつての限られた客層だけでなく、若者や女性客といった広い客層で賑わう街に変わりつつある。
国分町の歴史
昔、仙台地方には早くから木の下の地に国分寺が置かれ、また国分氏がこの地を領有していたので、今の仙台地方一帯を国分荘と呼んだ。伊達政宗が仙台に移り、大町・肴町・南町・立町などの御譜代町がそれぞれの地に置かれた際、その頃まで国分氏に従い、木の下付近に住んでいた町人などを芭蕉の辻から北へ置いた。これが今の国分町である。かつて国分荘に住み、国分氏に属した人々によって成立した町なので地名を国分町と称した。
当時、仙台地方では国分町を「こっぽんまち」と呼んだ。その後この町に豪商が住み込み、商業はもとより交通経済上重きを置かれた街となった。時代により変わったが、主な豪商には、呉服問屋、味噌問屋薬種商、物商、本屋など実力のある商人がいたようである。
稲荷小路の由来
稲荷小路のほぼまん中に豊川稲荷(とよかわいなり)というお稲荷さんの社があったことから稲荷小路と呼ばれるようになった。その社は稲荷小路の町内会が戦後建てたもので、昭和23年に虎屋横丁で火事があったときに、お稲荷さんの隣で火がピタリと止まったという逸話が残っている。
以前はにぎやかな飲食店や群がる人々に囲まれていたお稲荷さんだったが、今は、近代的に変わった稲荷小路にひっそりと佇んでいる。